釈迦の論理

釈迦本来の思想に深くあたってない段階で、結論優先で述べるは問題もあるが、自己の検証での強固な筋となってるのは、結局その思想根幹は八正道にあるという視座である。

四諦の内、苦集滅は釈迦が完全透視した人間生存本体の説明であり、釈迦個人はその掌握と同時に入滅することでの完結があったのであるし、本来その意向に釈迦は向かっていた。しかしその後に、釈迦は"生存(世界)の本質"に対処する"具現的な生存(域)での行動指針"たる八正道を生み出すに至った。八正道は二次的に釈迦が考えたところの「生存の本質(苦集滅)に添いながらもなお現実的に生存することを可能とする方法(補足1)」である。

あるいは言い換えるならば、"釈迦は生存の本質(苦集滅)の掌握と共にそれでも生存を維持することの合理的な方法(生存すべきを支持する何らかの意義)"というものがあること(あり得ること)を見出したということである。(補足2)

あるいはまた、こうも考えなければならないのではないか。つまり、もし人が生存の本質(苦集滅)を完全に把握したならば、その人はそこで完結を選ぶ。だが釈迦だけはそれを成さず、その代わりに苦集滅に対し現実的生存側から拮抗すべく八正道という方法を生み出し、それを実践することで「生存の本質(苦集滅)を 把握しながらのクリティカルな局面でのぎりぎりの生存(域)」というものが人類にとってあり得ると考えた。(補足3)

これが現在自分が思 うところのガイドラインである。これは大乗を考える上で、当然この基本が無ければ大乗が成り立たないことにも関わる。大乗はこの釈迦思想側の基盤を、彼らが所持する全く異なる世界像になんとか重ねて壮大に拡張しているのである。釈迦の八正道の本質は苦集滅の絶対性に対する僅かの生存側への差異であり、その実践による効果としての遅延である。その遅延が生存となる(その遅延により生存が起こる)。勿論、衆生には元々生存の本質(苦集滅)の掌握は無いので、釈迦とは異なり八正道は現実的な生存の形式として現れる。釈迦は衆生にそのように示したのである。思うにこれが大悲の本質である(補足4)。

またこうも考えるべきではないか。もし人が苦集滅を掌握したとして、その時にまた現実的生存側に戻ることがあるとしても、釈迦のように衆生総体に対応できるような何らかの合理的な方法論を生み出すことは困難だろうということ。まずそのような人は把握した内容を語ろうとしなかったり、一旦思ったとしてもそれを衆生の理解力に合わせて語ることのあまりの困難さに熱意を維持できないだろう(実際釈迦自身も最初にそう考えたのである)。自分は釈迦思想が特別(特殊) である要所をここに思うのである。


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[補足1] 釈迦にとっては選択的であり、衆生にとっては唯一の。

[補足2] 釈迦自身にとっては本来この必要性は無い。衆生にとってはこの方法によらなければ苦集滅の掌握に至る道はない。八正道とは(人間的に再来した)釈迦が、衆生の能力に沿わせ編成したものというべきであろう。

[補足3] 意図してここで津田真一先生の用語を選ぶ。

[メモ] 津田真一先生指摘(反密教学)に関わり: 現法的梵行の「現法的/drstadharme」の意味は「この現在世のなかで」だという。これは、完結する苦集滅に拮抗し、なお生存が「八正道=梵行」というあり方をもって成される場合、その時、苦集滅の完結性絶対性に対する遅延として生存は"意義化"され、それは(本質が苦集滅たる)現在世での事がら (法)として衆生に現れている、とも書きうるところの内容に絡む。要するに、梵行とは現世生存での苦集滅の転移であり、苦集滅の遅延的具現である、と。なぜそうなるのかが重大であろう。梵行の結果、生命は受け継がれない。現世にとどまった一定の遅延の後に何も残さず滅に帰結(入滅)するのだから、やはりその者は苦集の総体に因を残さないだろう、ということか?

[補足4] 津田真一「反密教学」-Ⅱ釈尊の宗教と華厳- を確認再読したところ、結局ここで延々書いていることの基幹はこれにあり、当追跡調査も紆余曲折経た結果、凡庸な頭でも多少理解が及んできたという話であった。以下同書より引用
釈尊はこの境位で停ってしまってもよかった。彼は<女性単数のdharma>の明の極に於いて安住し、その存在の高みから「諸法」、即ち存在者 の位層の諸相を観照し、「解脱の楽しみ」のうちに一人の独覚者(pratyekabuddha)としての生を終えてもよかったのである。しかし、彼はそこに停らず、無明を脱して明に至らんとする反自然的ヴェクトルのペルソナである梵天の勧請という神話が象徴する如く、釈尊自身の瑜伽の体験にとっては外的と なる、慈悲という原理を採択することによって、説法の決心をする。(80P)
[2014-07-05]


津田真一「反密教学」を確認して

津田先生のキーワードで「内の法界/外の法界」というものがあり、それは一体の同心円構造で図示される。勿論これは、当追跡調査が提示解説するところの円構造(マトリクス=曼荼羅)が、大乗テキスト史上でその論理基盤たる位置を成し(実は成すもので)、その反映拡張たる大乗テキストの"言語化された内容"の本質を再度図示で求めたゆえに、結果的に類似した円構造として成立したということが真相である。

これは、本来の基盤である(現実的な図像たる)マトリクスの存在を認識してはおられないはずの津田先生であるのに、テキスト側から(それのみの条件で)完璧に(隠れた)本体の意義を読み取るその力量により、やはり原型と近似する同心円図像が(津田先生の判断を経て)現されたということである。

今 ふとその図を見ていると、この「内の法界/外の法界」を示す同心円は、全くもってボロブドゥールと同じだと改めて思ったのである。釈迦や善哉童子がたどる行の経路を登っていくと、一周が釈迦坐像で形成された円の結界に至る。ここを抜けた内部が、津田先生が言うところの内の法界であり、そこから先は中心に向 かい籠状のストゥーパで形成される同心円が続く。籠の中には釈迦坐像が安置されている。これは以前も書いたが、釈迦がついに(内の法界に合入し)涅槃に一 体化する過程を、涅槃を示すところの中心ストゥーパに向かい変移する過程として設計したものである。籠状ストゥーパは、釈迦が現世の姿を滅して涅槃へ完全合一する、その僅か手前のオーバーラップ段階を表現しているのである。なんという高度極まりない発想であろうか。

[2014-07-13]


津田真一「反密教学」(改定版)

この書籍に初版と別途に新たな稿が加わっていることは知っていたのだが、いずれなんとか読むことがかなうを願うにとどまっていた。だが、利用するところの図書館にて借りることが可能と判明し、他の数冊と共に本日今ここに現物が到着している。まだその新規追加の稿を読んではいないのだが、そのテーマが「法華経」であることにいささか驚いている。この驚きは「反密教学」の機軸が後期密教の具体に関わるところ、それと「法華経」とのギャップにあるのではない。まったくその逆である。「法華経」が密教通史の根底であることが、我々のこの追跡調査の一定のまとめの要であるが、やはりテキスト研究領域での最新の見解は、それと違和なく一致して既にそこに向かっていたわけである。津田先生は「浄土思想」にも深く言及されているが、この二つの領域は、領域というほどに分断されてもいない。本質はほとんど同じようなものである。一つの大きな、そしてある意味単純明快な基盤論理、その拡張(バリエイション)が様々あるだけである。

偶然、借りてきた図書館の棚にあった「講座大乗仏教」の「法華思想」の平川彰先生の稿にざっと目を通してもきたのである。平川先生は「般若経」と「法華経」のあいだに一定の分断線を付し、「法華経」を(「空」に相対するところの)「実」に基盤を置くものと判断されている。ここが大乗の現実に関わる要所である。そこには一筋縄ではいかない途方も無い「手口」がある。「阿弥陀経」も同じであるし、それは「後期密教」までの「大乗の伝統(基盤)」である。そしてその本体は結局「般若経」に端緒がある。「法華経」も「浄土思想」も「般若経」にて最初に見出された着眼に則りつつ(補足1)、いくらかの個別性を拡張したバリエィションと言うべきなのである。さしずめ、さまざまな仏像がありながら、通常それは一般に「仏像」であることに似ている。

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[補足1] 「般若経」も、我々の追跡調査が説明するところの「マトリクス(世界構造を示す図像)」が導く世界認識に関わる最初の展開としてある。

[読後追記] 考察対象の困難さに加えて、文体が「反密教学」以上に複雑で、個々のセンテンスが長いのもあり、理解はなかなか難しい。詳細を正しく把握するには、サンスク リット語の特性を把握し、かつ専門的な領域に深く到達できる能力が本来は必要であり、我々のようにそれが不足する者は想像力で補うしかない。しかし結論は比較的分かりやすい。それはやはり、「法華経」も「へーヴァジュラタントラ」も大きく大乗総体の論旨にのっとり、「浄土思想」にて誰もが認知するところの 「世界総体たる"神"と個別の自己との在り方」に集合するとの見解で結ばれる。
これは我々の追跡調査が"大乗を外部から見渡す方法"により得た"大乗のプロフィール"そのものに連動するものであり、テキスト研究領域(テキスト成立史の内部)での追求の極めて正当な結論と言える。我々の追跡調査が明示すところの、大乗テキスト領域総体においてもう一層深いところに隠れた本体たる「世界総体を示すマトリクス」、これに依拠する世界認識が、大乗テキスト通史に揺ぎ無い一貫性を与えているのである。津田先生の論の趣旨根幹は"世界総体たる神と自己との関係"というタームにて極まるものだ。そのことは、個別の人間存在が世界総体たる神と一致することを示す(であろうところの"現実的に存在する")図式そのもの、それそのものが大乗の基盤であるという現実によって、テキスト領域総体に対する追求が成し遂げた結論として、(大乗総体が常に論理的であった限りにおいて)合理なのである。

テキスト前半で津田先生が指摘するところの、平川彰先生見解「法自性印の語は、そこでは明らかに妙法蓮華を指している(13p)」は、実に大乗テキスト通史に関わり内的に事の本質を見抜いた深い言及と言える(追記箇所補足1)。「法華経」においての「妙法蓮華」とは世界総体を示す(現わす)マトリクス自体を意味するのであり、意味するところのそれがメタファーであると同時に、その向こう側に"実在"的にあるところの、そのメタファーの本体(真の世界総体)、それ自体をも指し示しているのである。後期密教ではそれは「金剛女陰」の名に書き換えられる。現実的には以下の図像が「妙法蓮華」であり「金剛女陰」であり「ガルバ」である。ただしこの図は当然ながら、無限連鎖を完了していないのであるから不完全なものであり、その完全版は想像することしか出来ない。



「法華経」も「阿弥陀経」もそこに共通して存在する論旨特性は、フラクタル図形である本来のこの図像(マトリクス)の性質を世界構造に転じた時、必然的にもたらされるものである。今ここで概略だけを、しかし決定的な本質を記述すれば、それは「ゼロ位置に統括される無限連鎖時空」を言語域で扱う時に、そのことにおいて必然的に「特有の拡張」がおこるのであり、またそれなくしてテキストは対象の本質には接近できないということである。「法華経」も「阿弥陀経」も、仏の悟りの中核が無限の過去にあり、かつその位置(時空総体におけるゼロ位置)が(各々の/我々の)現在と対応し一貫性を維持する。この規定を担った合理的論旨確立を目指す大乗は、それを超常的説話の形態をとって成すのであり、その選択が大乗の本質なのである。

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[追記箇所 補足1] これに若干の違和を現わすところの津田先生論旨について、我々は現状的確に把握できていない。だが、大乗が依拠するところの「世界総体マ トリクス」が現実的な図像としての「マトリクス」を介して(のみ)現わされること、しかもその図像はさらに「蓮華」や「女陰」といった具体的象徴に逆らいがたい合着を成していることに応じ、常に大乗が「マトリクス」自体を深部に埋蔵している(隠している)ことにおいて可能となる"絶妙なスタンス"を採っていることに関係すると見る。

[2014-09-17]


「阿弥陀経」の要所

極楽(仏国土)の具体相の説明が釈迦よりなされる。ターラ樹の並木や鈴の網、周囲が財宝で出来た池やそれ自体が宝石である樹木、天上の楽器で奏でられる音楽やふりそそぐマンダーラヴァの花など、記述は具現的であり、それらはこの世の富の頂点を思い描くものである。

その記述の一環に「かの仏国土には、白鳥や帝釈鴫や孔雀がいる」との箇所がある。その鳥達は、仏国土の人々に、覚りに至るための要件を解き明かすさえずりをするという。この極楽にある鳥の説明の以下引用箇所にだけ、他の構成要素の説明にはない記述が含まれていることに注意を向ける必要がある。

シャー リプトラよ。そなたは、どう思うか かれら生ける者どもは、畜生の領域にいるのだらろうか。否、このように見なしてはならないのだ。それは何故だろうか。 シャーリプトラよ。かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、ヤマ(死神)の世界という名もないからである。しかし、彼ら鳥どもの群は、かの無量寿如来によって仮作されたものであって、法(を説き明かす)声を発するのだ。シャーリプトラよ。かの仏国土は、このような、仏国土特有のみごとな光景 で飾られているのだ。 (補足1)


「かの無量寿如来によって仮作されたものであって」は当然、示される極楽の様相の全てに対するものであるが、他は省略されて、この鳥の説明箇所のみに代表され記されていることを了解しなければ成らない。ここに経総体に利かした仕掛け、巧妙なレトリックの一端がさりげなく仕込まれている。すなわち経は、(合理的に)ここで以下の定義を成しているのである。

「今このように示される極楽浄土の相は実体ではない。諸君はこれを実体として把握しては成らない。それは諸君の理解にむけて(やむなく)無量寿如来が仮作したところのものを、この言及(釈迦)において説明するところのものである。(なぜなら諸君はそのようにしか、ついに"そのこと"を理解出来ないだろうからで ある。)」

経総体に利くところのこの"仕掛け"の前半部分は、経の結末箇所である以下引用箇所の単純明快な"仕掛けの解決"に刺さるものである。

シャー リプトラよ。わたしが今、このように、かれら仏・世尊たちの不可思議な功徳をほめ讃えているように、そのように、シャーリプトラよ、かれら仏・世尊たちも また、わたしの不可思議な功得をほめ讃えて『世尊・しゃか族の大王は、いともなし難いことをなしとげた。現実の世界において、この上もない正しい悟りを得 て、時代の濁り、生けるものの濁り、偏見の濁り、命の濁り、煩悩の濁りの中にいながら、一切の世間の人々が信じがたい法を説かれた。』と言うのだ。


すなわち、経の締めくくりは"覚りの本体側からの見解"を予測する形式を用いて、身も蓋もなくこう言い切ってるだけなのである。

「仏の功徳の本質はこの現実の世界(命・煩悩の濁り)にあって説明も理解もできるものではない。だがとりあえず諸君の濁りを本質とする理解力に合わせて、例えて述べた釈迦の言及は見事と言うべきところだ。」

さらに追撃のごとく、"仕掛け"の頂部は、釈迦自身の見解として最後に中心部分につき刺さる。(以下引用箇所)

シャーリプトラよ。わたしが現実の世界において、この上ない正しい覚りを覚り得て、生ける者の濁り、偏見の濁り、煩悩の濁り、命の濁り、時代の濁りの中にいながら、一切の世間の人が信じ難い法を説くということは、わたしにとってもまた、もっともなし難いところであるのだ。


つまり、この経の論旨根幹は以下のことなのである。

「現世の濁りにあって仏の領域を知るなどは、釈迦にしてのみやっと出きたのであり、諸君らに分かる術など全くないのである。だが、慈悲において釈迦は途方もない努力で、諸君らに例えて述べるところがこの極楽浄土の相ということである。」


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[補足1] 「かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、ヤマ(死神)の世界という名もないからである」との定義は、単にこの三種領域がないという意味ではな く、生存に関わり衆生が分類している領域の全てがないという定義である。この三種だけがないなどは成り立たないので総合的解説までは不要との前提なのである。 こうした手法(レトリック)が、この経の"仕掛け"の特性である。まるで罠のように、さりげなくある箇所に無駄なく主要材料のみを仕込む。我々としてはあえて最大の敬意を込めて「手口」と言いたいところである。

これに関しては以下のさらなる論旨に乗するものであることは明白と見る。それが一貫する大乗の基盤論旨だからである。

「極楽浄土とはそのような"領域"である。だが、もし諸君が所詮現世の個別の楽に過ぎないものの思い描ける究極の程を思い描き、その延長にこの"領域"をあてて考える場合(考えたいならば)、そこに合理を見い出す手立てはないのかと言えば、必ずしもそうではなかろう。到達するこの最終の"領域"にて解消されるあらゆるものは、現世の苦も楽も、全てが総体中核に連続する過程一環にあり、その究極における解消こそを、現世苦楽の高次にある楽(極楽)と捉えることに妥当性はあるとも言えるからだ。」

[2014-08-30]

覚書 大乗の本質に関わって

仏像によって示される諸仏、経に記され描かれる事柄、極楽浄土のような仏国の諸相、単に唱えられる真言や経、諸々の儀礼など、一定の形式により現わされるところのものがある。これらの具体の相に沿って信じられる(その向こう側に"ある")真実側の領域(絶対的な秘密としての領域)。

真実を担うものを確信し、(担われた本体であるところの)真実に向かう時、その人々にとり、その担うものは真実を自性とするものとして現われており、真実を自性とするものとしてこの現世側の全てを規定し主導する。そのことによって、それは真実が現われたものとしてまさに現前しているのである。

現われているそのものの本体が真実であるものが真実を自性とするものである。

そのように経や真言を唱えることにおいて、唱えられるそれらの具体は真実を担い示す。仏像もまたそのように現われる。

真実が存在しないことを前提とする現世総体を思い描くことは元々が難しい。それは可能としてもむしろ特殊な世界認識である(補足1)。真実が存在することが現世において必然としてまず現われている。故にそれに相応する真実の確信の手立てが示され(得)る。

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[補足1] 真実が存在しないと記す論理こそが大乗である。それが存在しないと記すために、まず存在を確信するための手立てを準備すると言ってもよい。この見地は「般若経」に端緒があり、仏教の最終過程にある「秘密集会タントラ」「へーヴァジュラタントラ」でもトレースされる。"汝自身が汝の父となる"ほかない立場の意義はここに関わり見出される。

[2014-09-21]


「般若波羅蜜多」等 大乗主軸語へのウイットゲンシュタイン論理にからんでの考察

ウィットゲンシュタイン論理にほんの軽く触れた程度で、以下のようなことを書くのも問題あるのだが、大乗のプロフィールに関わり重要なことなので書いておく。

「般若波羅蜜多」やそれを示す真言、あるいは他の様々な真言(あるいは像や記号)、それらは究極には何を対象としているのかと考えるとき、それらは悟りや真実(真理)を示しているとされるだろう。だが、ウイットゲンシュタイン論理に沿えば、そうした悟りや真実という語の対象は語りえないものであり、世界の外部であるとされる。

では「般若波羅蜜多」という語や多くの真言が、なぜ我々の(少なくとも大乗の描く世界において)認識活動において、意義と体系をもって在るのか。あるいはそう在り得ているのか。

まさに大乗の独自性はここにある。「般若波羅蜜多」と言う語はそれが示す対象が何であるか大乗のテキストのどこを読んでも明確には分からない。分からないように、論旨が一義に極まらないように、常にトートロジーを駆使して言及位置を変えるのである。言語活動は真理に関わる周辺を延々と転移するのだ。

そのための特性を持つ独自の言語技法が大乗テキストの素性である。

このことはウイットゲンシュタインの論理からみて妥当だ。「般若波羅蜜多」という語が示す対象は「悟り」「真理」と一致し、それらは世界の外部であり、語りえないものであるから、それに関わる言及があるとすれば、必然的に"世界の外部の周辺(近傍)"にて常に中核を"迂回"するものとなる。

「般若波羅蜜多」という語の対象は世界の外部であり、存在として規定(説明)できないものであることを、大乗は別の語句で「秘密」と規定する。この秘密とは絶対的な秘密であり、絶対的に明らかにならないことがその意味である。この"秘密の絶対性"とは、秘密の対象が存在していないことにおいて成立する。大乗はこれを「如来も知ることができない絶対的秘密」と規定する(「秘密集会タントラ」参照)。

この一連を導く主体は、大乗がテキストに先行して所持する世界像(図像)であり、これは大乗発祥以前よ りストゥーパの文化圏で伝承されてきた幾何学の構造である。それは総体構造の中核にゼロ位置を設定するところのフラクタル構造である。大乗とは、この構造の読み取りたる特殊な世界認識法を、先行する仏教思想に大きく矛盾しない文脈に変容させつつ、(ハイブリットな展開として)蒸着させた文化活動と捉える必要がある。

ウイットゲンシュタインの「言語ゲーム」の発想で考えれば、例えば「般若波羅蜜多」が、実は対象を語り得ない語でありながら、実際の我々の言語活動(認識活動)において、その語が無ければ成り立たないような意義をになっていることが重要である。「般若波羅蜜多」という語は、言語体系総体を今あるように成立させるように現に在るのである。本質においてその意味は絶対(的)に把握されないにもかかわらずである。

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別な説明をするならば、我々の言語活動(認識活動)の内側に「般若波羅蜜多」という語があり、それが実は対象を示しえない(積極的に示さない)特性を持っていながら、にもかかわらず一切矛盾なく我々の言語活動(認識活動)が働 く状態が(今こうして)在り得ている。現にそのように我々は「般若波羅蜜多」を正規の語句として用いるのである。これが意味するところは、「般若波羅蜜 多」という語を除外しても成り立つ言語活動の領域に、「般若波羅蜜多」という語は特別な意義を与えつつ、異なる統合を成立させているということである。実際大乗のテキストはそのエッセンスを描くものと言える。

「般若波羅蜜多」という語の示す対象本質を把握しないよう意志し、しかもその語を 言語活動(認識活動)に積極的に用いることを成せ、そのような認識方法を(唯一)とれ、というのが大乗である。これは「般若波羅蜜多」という語に限らず、大乗にて「悟り」や「真実」に連続するかに現われる語句(真言や記号や像)全てについて一義のことである。この着眼を特殊と言わずに何と言うべきかであろう。

この大乗の特殊な言語活動(認識活動)はそうすること(そう生きること)よって何を可能とするのか。もし「般若波羅蜜多」という語が その本質を把握できない程のものであれば、それを初めから知らない事とどのような違いがあるのか(それは確かに違わないのではないか)。絶対的な秘密とは、秘密とされる対象が存在しないことであるならば、それが秘密と規定される意義が元々無いのではないか。こうした疑念を記すことも可能である。これに対し早々な答を出すことは大乗の論者に対し無粋である。大乗の用いる基盤の世界図像は世界認識の方法として絶対であるわけではない。そのことを大乗の論者こそが最もよく理解しているからだ。それはただの幾何図形に過ぎない。しかし、彼らはそれをひとつの方法の機軸として選択実行したのである。このような世界認識は現に在り得るのだという選択実行である。

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あるいは「南無阿弥陀仏」「南無法蓮華経」でも同じである。一連の写経活動など。これらに充実した意味を与えるものは存在しないのである。これらは「悟 り」や「真理」に関わる何かのように表わされていながら、その実はっきりとした対象が分からない。それは「ナムアミダブツ」という発音が「南無阿弥陀仏」 であり「ナンミョーホーレンゲーキョ」が「南無法蓮華経」であることを知らずともそれを唱えられ(唱える意義がどことなく感じられ)、写経してる言葉の意 味を全く知らなくても写経ができるという(したくなるという)、こうした言語活動の存在が象徴的に示している。しかし、これは象徴的と言うべきではなく、 そうあることが必然と大乗は初めから考えている。そうあることが凡夫衆生の理想なのである。

[2014-03-23]